声質に宿る物語について
私は、「声質に物語が宿っている」歌手が素晴らしい歌手であると考えている。
まず、この話をしようと思ったきっかけはこのツイートから
ボーカルに必要なのは「変な声」だと思ってます。ToshIもRYUICHIも氷室京介も櫻井敦司も清春もhydeも吉井和哉もTERUもアクセルもBON JOVIもハルフォードもクセ強の「変な声」、他では満足できなくなってしまう唯一無二の中毒性…っていうんですかね。大量生産の「イケボ」とは違うのだよ!イケボとは! https://t.co/NCBg4xmOdF
— HAMORAN@6/29十三GABU (@mockingbird340x) 2024年6月10日
このツイートを読んでハッとした。自分の中でおぼろげに考えていたことがやっと言語化できた。私の好きな歌手にはそもそもの声質に物語があるのだと。
清春が歌えば、いたいけで、痛々しい非行少年になるし、TERUが歌えば*1青春が過ぎ去り、少し疲れてしまった青年に聞こえるし、桜井和寿が歌えば人生になると私は感じている。
昔の歌手はよかったと主張する懐古厨老害にはなりたくないのだが私は最近の歌手は声質に物語を感じないことが多い。
要因として挙げられるのは今の歌手は悪い意味で歌唱力*2が高すぎるところが挙げられる。所謂、「ヘタウマ歌手」*3が減った。あえて名前を出すならユーミン。彼女は以前、自分自身で歌があまりうまくないからライブでは演出をド派手にすると発言していた。たしかに私自身もユーミンの歌が上手いと思ったことはない。それでも彼女にしかない声質によって数々の名曲が生まれているし、彼女にしかない味があるのは事実だ。
歌唱力が高い歌手が増えた要因については正直想像がつかないが、我々リスナーが歌唱力の高い歌手を望んで聞いたことでヘタウマが淘汰されたという説が有力だと思う。80、90年代にヘタウマ楽曲が量産され、それに飽きたリスナーが歌唱力を求めた。ヘタウマ楽曲は新しく作られなくても懐メロとしてサブスクで聞けるので新たな楽曲としての需要はない、といったところだろうか。
また、ヘタウマと歌唱力は共存するのではないか?という指摘に対して私はYESと答えよう。90年代に一世を風靡したミュージシャンたちは今でもホールツアーを行ったり、東京ドームを埋めていたりする。そんなミュージシャンは今全盛期のころと比べて格段に歌がうまくなっている歌手は多いと思う。90年代アーティストが大好きな私の贔屓もあるかもしれないヘタウマはやはり生まれ持った才能なのだと思う。
最後にはなるが、大江千里の「Rain」と秦基博の「Rain」を聴き比べてみてほしい。この二曲を聞けば、私の今回言いたかったことがよくわからなかった方にも私の言いたいことが感覚的に掴めるはずだ。*4
*1:
GLAYの楽曲の中でもグロリアスは傑作だと考えている。TERUの性質の魅力と楽曲の魅力が見事に融合している。「新しい時代の行方を照らすメロディー、高らかに産声を上げてくれ」のフレーズが好きだ。曲を通して聞いたときに、イントロとアウトロのギターフレーズの聞こえ方が違って聞こえてくる所も大好きだ。
*2:
ここで指している「歌唱力」は声が大きいとか、ライブで音を外さないとか音域が広いとかそういった意味合いである。
*3:ファンの方が見ていたら申し訳ないのだがセカオワのFukaseはここ数十年で生まれた最後のヘタウマ歌手だと勝手に考えている。彼の声質に私は物語を感じている。「なにもまだ掴んでいないけれど、今まさに立ち上がろうとしている少年」みたいな。
*4:
秦基博のRainが嫌いなわけではない。彼の歌はタイアップ先の映画にとてもあっていたし原曲の新しい魅力を引き出していて素晴らしいcoverだと思う。花澤香菜のcoverも好きです。